神仏を拝む意味

2016–06–21 (Tue) 21:53
神社巡りをしているとあることに気付いた。
人が神仏に手を合わせる時は誰でも願いや感謝をするだろう。

家に神棚や仏壇があれば毎朝お水を上げ拝む人も多いだろうが、習慣でやる場合も真剣に願う場合も少なくとも神仏に手を合わせるのは敬虔な気持ちが必要だ。
と同時に、自分の願いだけを必死で祈っている人もいるが、祈りとはその時だけではなく祈る姿勢という背景も問われるのではないかと思うのだ。

回りくどい言い方になったが、例えば殺人を犯して警察に捕まりませんようにと神社で祈っても願いは届くだろうか。
スピリチュアルに善悪はないという説に立てばそれもありかもしれないが、普通の人間が考えたらそんな罰当たりな願いを神仏は聞いてくれるわけがないと思う。
神様自体が個々人の願いをかなえてくれるかどうかも賛否があるが、少なくとも神聖な場所で神聖でないことを祈願しても逆に神罰が下るような気がする。

以前ある大きな神社へ行った時、母娘連れがお参りに来ていたのだが、娘の方が母親を大きな声で手水の場所からずっと詰っていた。
離れていても聞こえるような声で30代の娘が60前後の母親を叱っており、それは二人が参拝が終わって境内のベンチで座っていた私の前を通る時も続いていた。
母親は終始無言で娘の文句を聞いていたが、傍で見ていた私は可哀想になるくらいだった。

そんな状態で参拝に来て、この母娘は何を神様に願ったのだろう?
神様に失礼だし参拝という行為を何だと思っているのか私は呆れてしまった。
神仏には最低限礼儀としてのマナーがあるだろうが、大きな神社へ行くとご利益など到底望めなさそうな立ち居振る舞いの手合いを見かける。
神に参拝するよりまずその心根を直すべきだと思ってしまう。

それは神社に限らず家の神棚でも仏壇でも同じことだ。
日頃の行いが悪いのに拝む時だけは自分の願いを熱心に拝んでも、何か違うだろうと思うのは私だけか。

神仏を拝むのはまず自分が神仏に恥じないような生活を送っていなければならないと思う。
後ろめたいことや利己的なことをして自分の願いだけを拝んでも、せいぜい聞いてくれるのは低級霊くらいだ。

神仏に祈るというのはまず自分の行いや心を顧みて、もし反省すべきや改心すべきはきちんと懺悔謝罪をしてからだと思う。
生きている人間をないがしろにして神仏に願っても、それは本末転倒というものだ。

神は寛容だ。
過ちもエゴも気付き改めれば必ず受け入れてくれる。
ハイヤーや守護霊も神仏を拝むという行為には、必ず己を見詰め直すという部分も望んでいるような気がする。

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