ジャッジしない

2018–09–14 (Fri) 17:22
最近スピリチュアル世界ではニューエイジ系が多い。
その一部で「自分を愛そう」「愛を送ろう」「ワクワクしよう」「自分に正直に」「ジャッジしない」などがよく言われている。
言わんとすることは判るが、これを文字通り実践したら自分一番の善悪関係ない好き放題の人生になってしまう。
そんな生活は出来るわけがないので、もっと現実に即した方法論が欲しいところだ。
一度だけそれ系のスピの集まりに出て、主催者がスピリチュアルの基本は愛だ的な事を説いていたので、解釈に戸惑ったことがあった。

ややもするとスピ世界でも耳障りのいいことを唱える傾向にあるが、じゃあ具体的にはどうすればというのが欠けている場合が多い。
「嫌な人にも愛を投げ掛けて」は常套句だが、あまりにも漠然としている。
つまり、嫌な人にも全否定しないで心を広く持ち理解する努力をしたりその人の立場に立って考えたり思いやりを持とうという意味だろうが、「愛を送ろう」は現実からかけ離れすぎている。
もしかしたら嫌な人の魂に向かって「あなたを愛しています」という思念を送ることかもしれないが、不勉強で私の解釈は上のようになってしまう。

スピリチュアル世界では愛というのがかなり意訳され、かつ便宜的に多用されているような気がする。
キリスト教の愛という概念が転用されている感がないでもないが、もちろん私も愛を否定するわけではない。
しかし現実に生きていれば辛いことも悲しいこともあるし裏切られたりいじめられたりすることもある。
そんな時に「愛」は全てを解決してくれるかというとなかなか難しい。

愛というのは無償だと思う。
特に親の愛は自分の命に代えても子を守りたいと思う。
男女の愛でも相手のために死ねるかと問われて死ねるのが真の愛だと思う。
死は命より大切なものと置き換えてもいいが、つまり相手の存在が自分自身より大事なものという意味だ。
私にとっての愛の定義はそうだが、スピリチュアルでいう愛は多分慈愛のような意味合いが強く、もっと言えば人類愛のような高次の愛ということなのだろう。

ジャッジしないも言いたいことは判るのだが、あくまで現実社会に即してという前提がつくと思う。
ただこれは私も最近そういう心境になって来つつあり、どんな悪人でもその人間のライフパーパスとして魂がそうなっているのなら、見えない世界の摂理として考えるしかないという気持ちが出て来たのも事実だ。
生きている人間が生きている人間を断罪するのは法律であり時の社会倫理だ。
しかし魂同士は断罪は出来ないし、あくまでそれぞれの今生の目的が違うだけでしかない。
そこを混同してしまうと大きな落とし穴があると思う。

「愛が全てで自分に正直にワクワクして何事もジャッジしないで生きよう」はとても羨ましい生き方だが、「自分の好き勝手に良い悪い関係なく楽しいことだけするのが愛の生き方だ」とは間違ってもならないようにしたい。
スピリチュアルは生きる助けになるが、取り入れ方次第では違う方向にシフトしてしまう場合もあるので、きちんと自分の基準で咀嚼することが必要だろう。



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職業画家でベネチアンマスクを描いています。

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