I got your back

2017–12–30 (Sat) 16:59
今年もあと一日で終わる。
大震災も戦争も起こらなかったが、社会や政治を見ていたら一庶民としては腹に据えかねる年だった。
今年ほど世の不平等や弱肉強食、無理が通れば道理が引っ込むというドラマを目の当たりにした年もないような気がする。
しかし終わってみれば北朝鮮の国難もどこへ行ったのやら、表面上は何ら変わりのない一年だったようだ。

個人的にはこれでもかというほど試された一年で、「スピリチュアル世界を信じるか」「神仏を信じるか」「魂というものを信じるか」を何度も問われ試された年だったように思う。
3年前にスピリチュアルに覚醒し、様々な見えない世界の事を知ったが、果たしてそれを信じ切れるのかと突きつけられるような事態に何度もぶつかった。

私は無宗教だが「信仰を試された」とでもいうべき試練を与えられたように思う。
同時にそれは大いなる学びであり、そこで揺るがなければ新たな発見や気づきがあったので私のスピリチュアル的思考には必要な事だったと思っている。
神仏や守護霊、ガイド達が直接ではなくとも、例えば誰かの口を借りてとか偶然目にした言葉などでアドバイスやメッセージをくれたことが多かった。
今月もトラブルがあったが知り合いの占い師が「神様のお試しだ」と私に言っていて、そうかもなあと思っていたところ電車に乗ったら「お試しレッスン」という広告のキャッチコピーが目の前にあった。

見えない世界は気を付けていれば様々なメッセージを送ってくれている。
辛い時、苦しい時、迷っている時に神様でもハイヤーセルフでも守護霊でもガイドでも助けを求めれば、直に帰って来なくても必ずなんらかの方法で合図やヒントをくれるものだ。
彼らを信じ信頼すればきっと応えてくれる。

どんな人も助け守護してもらっているのだが、こちらの意識をもっと向け信頼すればより通じ合えるだろう。
人間は一人ではない。
必ず後ろで心配したり一緒に笑ったり泣いたりしてくれる存在がいる。
最近スピ友にこの言葉を教えられた。

I got your back     あなたを守ります

色々な意味が重なっていてスピリチュアル的含蓄の深い言葉だと思う。

最近はブログの更新も遅滞気味だったが、来年も無理せず続けていきたいと思っている。

縁あってこのブログを訪れてくれた方々に心からの感謝を込めて。
有難うございました。




宇宙の法則

2017–12–29 (Fri) 14:53
スピリチュアル世界ではジャッジしないという考え方がある。
宇宙の法則と呼ぶ人もいる。
宇宙はただ善悪関係なく信じ込めば実現するという事らしく、そこに是非の色分けはない。

実際善悪というのは歴史のその時々で相対的なもので、絶対というのはあるかと問われれば人間としての良心しかないが、そこもスピ的に言えば考え方が別れる。
よく魂の向上や霊的進化のため人間に生まれてくると言うが、他方光と闇は表裏一体で互いに存在証明をしているから光と闇があってこの世もスピリチュアル世界も成り立つという意見もある。
先日もあるアカシックリーダーと話していて、例えば今の政権や総理も単にその役回りでこの世に来ているのだから彼等は自分のプログラムを遂行しているだけだと言っていた。
極論すると犯罪だろうが殺人だろうが宇宙の法則からしたらどれも不可はなく、縛っているのは社会のルールだけということになる。

歴史を見れはどうしてこんなひどいことや理不尽な事が起きたのだろうと不思議になることがあるが、そういう意味ではそれが人間が作り出している社会の営みなのだ。
宇宙的に見れば悪人も信じて願えば悪業の限りを尽くせるし、満足して幸せに死ねる。
裁くのはその時代の社会のルールであり、ナチスの時にはホロコーストもルールだったわけだ。

そこまで割り切ってしまうと身も蓋もないような気がするが、スピリチュアルの世界については様々な考え方がありそれこそ正しい答えはないのだろう。
確かに不条理や不正がまかり通る事例が政治を始め社会には多くある。
その大半は何の咎も受けず、正義はないのかと思う。
良心の呵責があるかと聞けば多分ないのだろうから、人間の良心さえ相対的なものと言える。

この問いを突き詰めても答えは出ないので、「ジャッジしない」や「宇宙の法則」は、まさしくジャッジは出来ない。
この意識を持っているスピリチュアリストの共通点は自分自身の今を大事にするというスタンスで、社会に不平不満を言っているだけでは生活も楽しくならないと言う。
逆に言えば今の生活が確立しているからそうとも言えるわけで、生活に困窮していたらそんな余裕はないかもしれない。
「ジャッジしない」「宇宙の法則」を唱える向きは、ある意味恵まれた環境にいるスピリチュアリストのような気がする。




心身の浄化

2017–12–24 (Sun) 13:41
最近色々立て込んでいてブログ更新もままならなかった。
年末だからというわけではないが、自分の中でも最後のデトックスが来ていた。
今年は何かと体調不良や意識のクラッシュが多く、心身共にリセットを余儀なくされているような年だった。

最近九星気学で9年間でどん底の年だと分かり、やはり統計学は当たるかも、と納得が出来た。
こういう統計学や算命系の鑑定は、自己暗示にかかりやすい人間はあまり知らない方がいいのではないかとも思う。
構えて引き寄せてしまうからだ。
ポジティブに考えられる人は転ばぬ先の杖的に迎えられるだろうが、ネガティブ人間は自分でネガティブのループに陥ってしまう。

私がこの一年で学んだことは、一つの大きなトラブルやネガティブな出来事は必ずいくつかの伏線があって、それが合致した時に起こったり一つのきっかけが次々と他の要素を呼び込むという事だった。
例えばもともと悪い運気の時に気持ちがネガティブになり、人間関係の躓きがあって同時に体調を崩したとする。
これは前二つの素地があって、人間関係ではネガティブな他者の波動を受け疲れていたところにそれが作用し体調を崩し、なおかつ自分の抱えてきたカルマがそこで発動して、おまけに実は前世で大変な目に遭っていた歳だったリするとかなりの条件が重なってしまう。
多分この半分でも欠けていたらトラブルは回避できたかもしれない。

よく占いでも病気やトラブルの原因は何ですかと聞きたくなるが、一つではなく複数が重なっていることが多い。
シンクロし増幅して大事になってしまうのだ。

ただ、人生で起きる出来事は大きなことほど必ず意味がある。
私はスピリチュアル的思考になってから、その意味の追究を始めてしまうようになった。
自分がプログラムしていたり選択してしまった事柄なので、意味を探ったら必ず気づいたり改めたり学ぶというケアこそが大事だと思う。

今月は仕事面で忙しかったのと胃腸のトラブルにも見舞われたが、これでクリアしなければならない今年の潜在意識の課題も見つかったので最後の厄落としだと思っている。
台風が過ぎ去った後に空気がきれいになるように、しんどいことがあっても解決した後にすっきりするのは浄化が行われたという事なのだろう。


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自分にかける「呪」

2017–12–18 (Mon) 16:58
今月に入って、二か月ほど前にふと願ったことが実現し、それもかねてから思い描いていた希望に沿うものだったので「願ったことは現実になる」という不思議な法則を目の当たりにした。
しかし同時にネガティブな事も起こった。

「好事魔多し」だと思ったが、よく考えるとこの現象は私自身が昔から自分にそういうシステムを潜在意識の中でインプットしていたのではないかと気が付いた。
ずっと「何かを得るには何かを失わなければならない」「この世はギブアンドテイク」的な考え方があって、無条件にいい事幸せな事はある筈がないというかなり悲観的な人生観を持っていたように思う。

実際過去を顧みても大きな喜びの前には失うものや苦難があったので、いつかしら人生はそういう法則なのだと思い込んでしまったのだ。
勿論顕在意識でそうしているわけではないが、今回も自分が作ったその法則を無意識に発動したのではないかと考えたのである。

自己暗示という言葉があるが、これは自分に「呪」をかける事だ。
ゲン担ぎもその一端で、いい方に使えばいいが悪い方にも効力を発揮する。
例えば皿が割れたり大事な物が壊れたりしたら、きっと悪いことがあるに違いないと思ってしまう人は多いが、思えば思うほど自分がその方向へ行ってしまい現実となる。
実際はパワーストーンブレスレットが切れて身代わりになってくれたり厄を落としてくれたりすることはあるし、大難が小難になることもあるので見えない世界の警告という場合もあるが、全てがそうとも限らないのに悪いことがあると強く自己暗示をかけてしまうわけだ。

私の場合もその傾向が顕著で、自分で難を招いていたような部分が多々あった。
同時に自己肯定感が低く悲観的な部分があって「願いが叶うには犠牲がいる」的な思考回路を持っていたように思う。
「禍福は糾える縄の如し」というように、人生にはいい時も悪い時もあるが、それはバーターではないし同比率で存在するわけではない。

知り合いの占い師が「私は大丈夫」と常に唱えれば本当に大丈夫だからと言っていたが、実に簡単で実効性があると思う。
不安や疑念が生じてもとにかく「大丈夫」を繰り返すそうだ。
そうすればそれは自分にかけた「呪文」になる。

誰でもあれこれ考えず常に「大丈夫、大丈夫」を心の中でつぶやくようにすれば、潜在意識に染みついたネガティブな自縄自縛の法則も解消できるかもしれない。


血で血を洗う業

2017–12–12 (Tue) 15:10
大相撲の暴行事件に続き大相撲発祥に関わりのある富岡八幡宮で、何とも凄惨な殺人事件が起こった。
骨肉相食む殺戮は歴史上も多々あるが、今回も金と跡目を争って弟が姉に日本刀で切り付けるという血生臭いものだった。
舞台が神社で宮司の座を争ってということだから、八百万の神もさぞかし嘆いていることだろう。
大相撲の不祥事に重なるように由来の神社での殺人事件となったので、相撲の因縁祟りと考える向きもあるようだ。

何でもスピリチュアルに結び付けるのはよくないが、背景を調べるとまず人間臭い欲と野望と妬み恨みが底流にあり動機もそこだ。
一族や先祖の因縁というのは神社仏閣という舞台においても帳消しになることはなく、昔から神や仏に仕える者も闇を抱えていてしばしばその陥穽に落ちていくのは有名な寺社でも例外ではない。
宗教法人は無税なので「坊主丸儲け」という言葉もあるくらいで、大きな寺院や神宮の僧侶、宮司は羽振りも良く高級車に乗っているという話はよく聞く。
全国の神社を統括する神社本庁は政権に食い込んで改憲を画策している日本会議と重なっているし、かなり専制的な組織らしい。

くだんの富岡八幡宮は女性を宮司にするかという点でも物議をかもしていた。
神社本庁は女性宮司を認めておらず同じトラブルは八幡宮の総本山宇佐八幡宮でも以前起こっている。
富岡八幡宮では先代の兄が境内で自殺しているという話もあり、どうも障りのある家系だというのはスピ人間でなくても察しはつく。
相撲は女人禁制だが宮司というのも女性を認めていないようで、宇佐八幡宮の女性宮司も神社本庁から認定されずその地位を追われた。
富岡八幡宮も殺された姉の女性宮司は神社本庁からの離脱を決めたそうだが、妙なシンクロを感じるのは私だけだろうか。

八幡宮は八百万の神を祀るが、源氏由来の神社でもある。
源氏は父子兄弟が血で血を洗う一族だった。
父子、兄弟の争いは凄まじく歴史上でも有名である。
くだんの殺人事件も犯人の弟は父子相克もあり姉弟相克もあって、遺書で「死んでもこの世に残り怨霊になって祟る」という言葉を残している。
源氏の業を神に仕え浄化するどころか反対に受けてしまったのだろうか。
因縁の深い家に生まれるのは因業を積むためではなく軽減するために来ている筈なのだが、この姉弟の魂はキャパを超えた深い闇を引き受けてしまったのかもしれない。

全国で一番多いと言われる八幡宮だが、それぞれの神社には神様がいて人間の俗的な思惑とは関係なくその土地を守っている筈だから、どんな曰くがあろうとどんな神職がいようと神様は神様だと思う。
大切なのは神を信じ神を畏敬し祈りを忘れないことだろう。


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過ちを認める

2017–12–08 (Fri) 16:34
最近はツイッターもあまり見ないようにしているので時事問題も大まかな事しか把握していない。
それでもマスコミが政権に都合の悪い問題から目を逸らすため、相撲の暴行事件をスピンとして連日取り上げていることに辟易としている。
ずっと続いている相撲の八百長問題が底流にあって、そこを知りつつないものとして上辺の体裁を取り繕って事件を矮小化させているようだが、構造は安倍政権と重なっていて妙なシンクロだと思う。
皆関係者は事実を知っているのに決して本音では語らず建前だけを延々と続けている。
それを白日に晒せば相撲界は根底から覆りそこで利益を得てる人間は大変なことになるから、皆素知らぬ振りをするがこれはもう自分を守るためでしかない。
同じ事が今の安倍政権にも言えて、官僚から関係者から誰でもわかる嘘を付き通すのはもはや政権を守るというより自分のためになっている。
皆共犯なのだ。

人間は自分の非を認めるのは中々難しい。
傲慢な人間や自信家ほどそうで、プライドは命より重いという者もいるだろう。
非を認め謝り行いを改めることが出来るのは人間としての器の大きさだと思うが、立派な人間は間違いを犯さないという社会通念から偉くなればなるほど過ちを認めるのは自分自身の否定になってしまうという意識が働くのかもしれない。

しかし組織でも国でも最初の判断ミスを認めないばかりに、最後に悲劇を招くという結果に終わっていることがあまりにも多い。
今年は隠していたことが次々と暴露される年だそうだが、政権から企業から旧悪がばれてもなかなか認めず、あるいは未だにシラを切り通しているが、後になればなるほど傷口は大きくなっていく。
正義を通そうとする者が叩かれ排除される今の日本だが、通底するのは過ちを認めないという人としての基本的な倫理観の欠如にあると思う。

過ちを認めるというのは嘘を付くよりより余程勇気のいることで、その人間の魂の在り方や霊格が問われているのではだろうか。




霊能力の繋がる場所

2017–12–03 (Sun) 16:32
最近なるほどと思うスピ的考察を読んだ。
占い師でも霊能者でも簡単に霊視出来る人はあまり高いところとは繋がっていないという内容だった。
確かにどこと繋がっていても守護霊や背後霊、過去や未来がある程度見えたり分かったりする。
霊能者と言われる人は自分が情報を持ってくる場所や相手を知っている人もいるし知らない人もいる。
また、御本人はそう思っていても実は騙されていたりして高次の霊を騙った質の悪い存在の事もある。
それでもある程度は見えない世界を見せてくれるのだ。

以前知り合った霊能者で様々な神仏が自分にはついていて、呼び出して力を貸して貰っているという人がいた。
確かに御本人は信じて疑っていないので何とも言えないが、そう簡単に八百万の神を呼び出せるものだろうかと私は思ってしまった。
神をつけるということもやっていたが、そこまで行くと?マークがついた。
自称陰陽師や新興宗教のようなところで神入神や守護霊を付けるという秘儀をやっている場合があるが、これはアチューメントの亜流であまりよろしくないものを憑けられるのは想像に難くない。

彼、彼女らは自分にそんな能力を与えてくれる存在を本当に神仏だと思っているわけだろうが、簡単に人間が神を人の体に入れたりつけたり出来るものだろうか。
実際こういう能力者達は霊を見たり話したりして見えない世界と繋がっているのも事実だろうから、そんな技を見せられれば普通の人は凄いと思って信じてしまうだろう。

繋がっているところが以前記事にしたミカエル会社や不動明王会社の社員や派遣ならまだいいが、もしかしたらサタンや牛頭魔人の凄腕営業マンの可能性だってある。
凄腕営業ならカルトの一つぐらい簡単に作る能力は与えてくれるだろう。

スピリチュアル能力を持っている人もピンからキリまでいて、霊能は最もポピュラーな一つだが、中には本当に一生を懸けて神仏の使徒となったり人知れず災害や大きな厄難を押さえている能力者もいる。
あるいはいわゆるスピリチュアルではなくても医療や芸術や発明発見など違うスキルでスピ能力を発揮し人類に寄与している者もいる。
大きなギフトを与えられると人生と引き換えにするような大仕事が来る。

見えないものが見える聞こえるというのは、自分は勿論占い師や霊能者に鑑定してもらう時にも本当に見せてくれているのが大丈夫な存在なのかどうかは慎重に見極めた方がよい。
ポイントは自分の直観と、その後の感じを検証することだ。
ちょっとでも違和感があったら気を付けた方がいいし、何度か回数を重ねる途中でそれが出て来た時も注意かもしれない。

残念な話だが霊は嘘をつくし、神仏のふりをするのはよくあるようだ。
しかし心から自分の守護霊なりガイドなりを信じていれば必ず警告をしてくれるだろう。


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Author:masquerade
職業画家でベネチアンマスクを描いています。

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