犠牲者は善良な人々

2016–06–28 (Tue) 15:26
イギリスのEU離脱ショックについて様々な解説がなされブログでも色々な立場から今後を予想しているのを見たが、大まかに言えることはこれはリセット、リセッションではないかという考え方だ。
それが最終的な目的だが、それには一度崩壊させ混沌状態から振り分けもう一度新たな枠組みを作るという作業が必要だ。
しかしその最終目標がどれなのかは綱引き状態で、まだ起こしている本人達もはっきりと見えないのではないか。

これはスピ的にはアセンションだし、俗的にはイルミナティーのグローバルエリートが目指すNWOなのかもしれない。
陰謀論と言われようが確実なのは、もう歴史の歯車は動き出して世界の仕組みは変わりつつあるということだ。

近未来は悲観的な予測の方が多いが、それを乗り越えていけば全く違った価値観の世界が生まれる可能性がある。

まず卑近の問題としては、経済的にはドイツ銀行やシティーバンクの倒産で経済が大混乱し、それに乗じて仮想通貨に切り替わり貨幣価値がなくなるという説だ。
これはすでにビットコインがあるし日本の三菱UFJも仮想通貨を始めるらしいから、あながちあり得ない話ではない。
銀行からお金が降ろせなくなるというのはベネズエラやアメリカでも起きているから現実味を帯びている。
政治的にはEU離脱に関してイギリスを始め各国で内乱が起こる可能性があり、これも国際的な混乱を引き起こす。

全ては第3次世界大戦を起こそうと思った勢力がテロや様々な事件を起こしても無理だと知って、経済恐慌で世界を戦時状態にすればと考えたのかもしれない。
しかしそこに地球の身震いともいえる異常気象や不可抗力の事象が加わり、大きな人間の集合意識と宇宙や自然や見えない世界の干渉がぶつかり合ってカオス状態が始まったというのが今ではないだろうか。
行き先は乗り物に聞いてくれという状態だ。

しかし遠大な物語を語っても現在生きて生活している我々の日常があるわけで、ロスチャイルドが世界銀行を作るか否かより毎日普通に生活していけるかが個人にとっては大切なことだ。

私的には何年かは激動が続くと思っている。
自然、人工どちらでも色々な災害や動乱が起こるだろう。
自分を守れるのは自分だけで国家は守ってくれないのだけは確かだ。
それどころか国家の犠牲になる危険性の方が高い。

今回の英国ショックで自殺者が増え電車が止まったと言われているが、リーマンショックの時も大変な事態になっていた。
日銀がマイナス金利を実施した時は家庭用金庫が売れ、銀行から資金を引き揚げる人が少なからずいたようだ。
危機に敏感な投資家はいつもそれで儲けるが、庶民はそこまで金銭に貪欲ではないので、割を食うのはいつも善良な人々だ。
日本は参議院選が終わるまでは経済破綻は何としても政権が阻止するだろうが、それ以降はどうなるかわからない。

個人もリスク管理は早めにした方がいいのではないか。


厄落とし

2016–06–27 (Mon) 16:59
英国のEU離脱で世界中に衝撃が走った。
スピ界も経済界も世界恐慌の予言をしている人がいたがある意味当たっていて、更にパシャールなどは本格的な恐慌は秋からだとも予言しているから未来は楽観視できないようだ。

英国世論も世界の予想も残留だと思っていたが蓋を開けてみたら離脱になっていて、イギリス国民は改めて事の重大さに気が付いたようだ。
そもそも離脱したらどうなるかということもよく知らず、一部の離脱推進派のプロパガンダとブームに乗せられて投票したが、大変な事態が待ち受けているとやっと仔細を理解し後悔している離脱派も多いようだがもう後の祭りだ。

私もこの結果には驚いたが、ふと思ったのは歴史を振り返ると変化の端緒を開いてきたのはいつもイギリスだった。
マグナカルタも産業革命も植民地支配も大英帝国が最初だった。
落ちぶれたとはいえ今回もイギリスはその役目を果たしたのではないだろうか。

これは現存の国際秩序が崩壊し新しい世界の仕組みが出来上がるという、終わりの始まりかもしれない。
世界を牛耳ってNWOを目指している1パーセントの支配層の思惑とは違ったようだが、どの途立て直しは不可避の地球であり、それがどちらの方向へ向くのかは神のみぞ知るだ。

今回のイギリスで起こったことは日本にも波及し我々個人の生活にも影響を及ぼすだろう。

起きたこと、過ぎたことは二度と元に戻すことはできない。
いつまでも壊れてしまったものや失ってしまったものに対して怒りや後悔や未練を持っても不毛だ。
望まない状態の変化でも受け入れなければならないし、その中で最善の道を探すしかないのだ。

私の知り合いの占い師が今回のイギリスショックを厄落としになるのではないかと言っていた。
なるほどそういう見方もあると思った。
これで世界の大厄が落ちて全ていい方に向かえればいいが、本番は秋以降と言われているからこれは注意喚起かもしれない。
今回で何かを感じた人は心構えや準備をすべきかも。

逆にもう影響を受けてしまった人は文字通り厄落としと負の先払いで、今後はいいことがあるかもしれない。



隠蔽と露顕

2016–06–23 (Thu) 17:17
2016年は隠されていたものが次々表に出てくる年だとスピリチュアル界でも占星術でも言われていたが、前半を終わってみてまさしくその様相を呈している。

パナマ文書やオリンピックの裏金、原発事故のメルトダウン隠蔽など枚挙に暇がない。
特に福島原発の5年間の実態は嘘に嘘を重ねていた。
放射能や被曝の数値の改竄は当たり前で、それで無理になるとモニタリングポストを故障だと言ったり撤去したり基準値や検出限界を変えることなど常套手段だったようだ。

事故当時鼻薬をかがされた御用学者がメルトダウンという言葉を使わず原発は大丈夫だと国民を洗脳していたが、実は東電も政府も官僚もメルトダウンで夥しい放射能が飛散してしまったことを知っていた。
しかし真実を国民に知らせたらパニックが起こり国内が混乱して国の存亡にかかわる事を恐れて、官僚も政府も隠蔽することにしたのだろう。

今でも私は事故直後「致死量の放射能を放出してしまいました。」と東電の幹部が泣きながら言ったテレビの場面を覚えているが、悲しいかな知らない方が幸せなこともこの世にはあり、多くの国民は大丈夫と信じ今ではもう原発事故は過去のことで放射能も関係ないと思っているようだ。
事実を知ったばかりに残りの人生を恐怖と心配で過ごすか、知らずに安心して過ごすか、仮に放射能のせいで同じく寿命が縮まったとしても後者の方が幸せだろう。

私は昔から自分が知ったり感じたりしたことは人も同じく知っているのだろうと思って話をすると、会話に齟齬を来たし自分がおかしいのかと戸惑うことがままあった。

原発事故当初もあの壮大な国ぐるみの詐欺や芝居を何でみんな気が付かないんだと思っていたが、額面通り受け取っている人の方が多く無理が通れば道理が引っ込むのが世の常なのだと絶望したものだ。
今でも福島で子供の甲状腺癌が100人以上になってチェルノブイリと同じ道を辿っているが、未だに放射能の因果関係を認めていない。
そう言っている医師は絶対に知っているはずなのに、どういう心境でシラを切れるのか私には理解できない。

放射能のことを書くと、風評被害だ、福島は安全だと必ず抗議が来るが、何を信じるかは個人の自由でそれ以上でもそれ以下でもない。

しかしどんな不条理でもどんな不正でもまかり通り歴史は作られてきたわけだから、それが人間社会の営みなのだ。
個人の良心や正義感でどうなるものでもないというのを目の当たりにしたのが原発事故以来の日本だった。

歴史の中では人間の集合意識が色々な方向に振れ、時に戦争、時に革命、時に立て直しと、ただただ営々と命が紡がれ魂の修行が行われているだけだ。

私も分かってしまうことで余計な不安や心配もあったし、勘が鋭いばかりに人間嫌いになったり生きにくかったこともあったが、歳を重ね魂や精神世界を知るに及んで、最早不正や隠蔽が露顕してもシナリオ通りなのだろうと腹も立たなくなった。

地球は今軋んでいる。
未来がどうなるのかはスピ世界でもはっきりとは確定していないらしいが、平和で安定的な時期でなくなっているのだけは確かなようだ。

様々な事実が白日に晒されていく行く今の世界であり日本だが、これからもそれは続くだろう。
しかし、今生きている事、家族がいて毎日普通に暮らしていける事、その現実が一番大事だと思う。



神仏を拝む意味

2016–06–21 (Tue) 21:53
神社巡りをしているとあることに気付いた。
人が神仏に手を合わせる時は誰でも願いや感謝をするだろう。

家に神棚や仏壇があれば毎朝お水を上げ拝む人も多いだろうが、習慣でやる場合も真剣に願う場合も少なくとも神仏に手を合わせるのは敬虔な気持ちが必要だ。
と同時に、自分の願いだけを必死で祈っている人もいるが、祈りとはその時だけではなく祈る姿勢という背景も問われるのではないかと思うのだ。

回りくどい言い方になったが、例えば殺人を犯して警察に捕まりませんようにと神社で祈っても願いは届くだろうか。
スピリチュアルに善悪はないという説に立てばそれもありかもしれないが、普通の人間が考えたらそんな罰当たりな願いを神仏は聞いてくれるわけがないと思う。
神様自体が個々人の願いをかなえてくれるかどうかも賛否があるが、少なくとも神聖な場所で神聖でないことを祈願しても逆に神罰が下るような気がする。

以前ある大きな神社へ行った時、母娘連れがお参りに来ていたのだが、娘の方が母親を大きな声で手水の場所からずっと詰っていた。
離れていても聞こえるような声で30代の娘が60前後の母親を叱っており、それは二人が参拝が終わって境内のベンチで座っていた私の前を通る時も続いていた。
母親は終始無言で娘の文句を聞いていたが、傍で見ていた私は可哀想になるくらいだった。

そんな状態で参拝に来て、この母娘は何を神様に願ったのだろう?
神様に失礼だし参拝という行為を何だと思っているのか私は呆れてしまった。
神仏には最低限礼儀としてのマナーがあるだろうが、大きな神社へ行くとご利益など到底望めなさそうな立ち居振る舞いの手合いを見かける。
神に参拝するよりまずその心根を直すべきだと思ってしまう。

それは神社に限らず家の神棚でも仏壇でも同じことだ。
日頃の行いが悪いのに拝む時だけは自分の願いを熱心に拝んでも、何か違うだろうと思うのは私だけか。

神仏を拝むのはまず自分が神仏に恥じないような生活を送っていなければならないと思う。
後ろめたいことや利己的なことをして自分の願いだけを拝んでも、せいぜい聞いてくれるのは低級霊くらいだ。

神仏に祈るというのはまず自分の行いや心を顧みて、もし反省すべきや改心すべきはきちんと懺悔謝罪をしてからだと思う。
生きている人間をないがしろにして神仏に願っても、それは本末転倒というものだ。

神は寛容だ。
過ちもエゴも気付き改めれば必ず受け入れてくれる。
ハイヤーや守護霊も神仏を拝むという行為には、必ず己を見詰め直すという部分も望んでいるような気がする。

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負の言霊

2016–06–20 (Mon) 17:40
最近想念や言霊は現実化することが実感としてわかり、過去を思い返してみると色々な場面で思い当たることがあった。
特に人間関係でそれはかなり顕著な気がする。

家族でも身内でも友人でも仕事関係でも、あらゆるところで人間は想念を飛ばし合い気を交流させている。
お互いに好感を持つといい気の流れになり、険悪になると悪い気が流れる。

上手く行っていた関係が何かの躓きでおかしくなった時、良くしようと思う気持ちより不快だったり不満が強くなるとそれは波動となって相手に伝わる。
勿論気を付けていても態度振る舞いにも出るし、以心伝心で伝わって行くだろう。

お互いが触れ合う部分でそういう状況になるのならまだ仕方がないが、一番いけないのは相手のいないところで言葉に出すことだ。
悪口を言ったり悪し様にその人間を非難することは、いわばアファメーションになり、言霊になって言った通りの現実を引き寄せる。

「あの人って私のこと大嫌いなんだわ。」「私の顔を見れば怒るのよ。」
というように特に自分に対しての相手の言動を批判すると、これはアファメーションでそのような状況を招いてしまう。

誰でも反りが合わなかったり相性が悪い人間はいるだろうから万人と上手くやるわけにはいかないが、注意した方がいいのはその事実や相手のことをネガティブな言葉にして口から出してしまうことだ。
これは必ず負の波動を増幅させて、言った通りの悪い事態を現実化させてしまう。
こんなにこの人と上手くいかなくなるなんてと後で思うような時は、どちらかが悪口や非難という負のアファメーションをしているかもしれない。

政治や会社や組織という公共の場での批判や糾弾はその範疇ではないし正当なことを主張するのはあって然るべきだが、個人的な人間関係の中ではネガティブなことは口にしない方がいい。
悪口は良くないと誰でも知っていることだが、これは実はこういう深い意味があるのではないかと思う。

言霊はいいことは願いだし、悪い事は呪詛になる。
誰かと関係が悪くなると愚痴ったり批判したくなる気持ちはわかるが、それを他所で言葉にしてしまえば相手が良くなってくれる可能性を自分で拒否していることになる。

関係を改善したり仲直りしたいと思っているなら逆に「あの人は本当はいい人なの。」「優しくして貰ったり助けて貰ったりしたのよね。」と悪い事ではなくいいことを思いだして言ってみたら、きっとそれは言霊となって相手に届くだろう。

実はこれは私がかつて身内と同じような状況に陥った時のことをふと考えていたら、お互いにそれをやっていたのだと突然降りてきたものだ。
書き留めておいた方がいいような気がしたから、今記事にしている。


良薬は口に苦し

2016–06–19 (Sun) 16:28
人間は大抵自分の意見や考えに異を唱える者は煙たがるし、時には対立すると喧嘩になることもある。
同等の立場なら対立抗争で済むが、これが上下関係があるとそうもいかず、力のある者に力のない者は従うしかない。
それどころか、間違っていると思っても口に出すと我が身が危ない場合もある。

権力者の意向を忖度し盲従するか反対して切られるかで、やがて独裁者の周りにはイエスマンしかいなくなるというのが歴史では繰り返されてきた。
裸の王様に「裸だ」と言える子供は童話の中にしかいなかった。

しかし同じようなことはに日常生活の中にもよくある。
家族で、会社で、また友人でも自分に苦言を呈したり反対意見を言ったりする人がいると、やはり面白くないのは人情だ。
時には喧嘩になったり他人ならそれで関係が切れたりすることもあるだろうが、どんな相手でも言われた中身は検討してみた方がいいような気がする。

そういう時は守護霊なりガイドなりがその口を借りて注意をしている時があるからだ。
特に同じようなことを複数の人間に言われたりネットでも書物でもあるいはテレビのドラマでも出てきたら、これは間違いなく自分に向けた後ろからのアドバイスだと思った方がいい。

信念を持って突き進むのはいいが、もし守護霊がその方向は違うと心配しているなら色々な方法を介して教える。
一番わかりやすいのは人の言葉であったり、危険を伴うような時は回避するためにわざと病気にさせたりすることもある。

私はガイドといつも繋がりたいと思っているが、全てとコンタクトが取れるわけではないし全く通じない時もある。
複数いるガイド達がそれぞれ役割分担を持っているかもしれないし、伝え方も様々だと思う。
生活の中で不本意ながら起きたことやうまくいかなかったことでも、後から冷静になって考えてみればそれはガイドのサインだったのかもしれないと思えることがある。

人間は信念を持てば強いしそれは現実化するが、少なくとも正しい道なのか途中から曲がっていないか常に検証する必要があるのではないか。
例えば個人なら家族や友人などの周りの人間、権力者ならブレーンや部下などの意見を聞き、特に上に立つ者は苦言を言ってくれる人間をこそ重用すべきだと思う。

口当たりの良い言葉だけを受け取って耳障りなことを言う人間を遠ざけるのは、決して自分のためにならないしお山の大将や裸の王様になってしまうのがオチだ。

まず虚心坦懐にフラットな目で自分の周りにガイドのサインがないか見回してみたらいいかもしれない。


悪人ほどよく眠る

2016–06–18 (Sat) 16:27

今日は午前中日本の広い範囲で地震雲や彩雲が出ており、ツイッターには沢山画像が上がっていた。
こんなに地震が多いと地震雲にも注目が集まるのだろう。
この地震への関心と想念が大地震を回避させる方に向いてほしい。

さて、昨日スピ系の友人と会って面白い話になった。
世の中に悪行の限りを尽くしても、金力権力を最後まで維持できて普通に天寿を全うできる人間がいるのは何故かという話題だ。
勧善懲悪や悪は滅びるという考え方は通用しない人間がいるからだ。

友人曰く『そういう人は自分のやっていることが悪いことだとは思っていないし罪悪感も何もないから、本人的には悪行ではない。転落したり罰が当たったように見えるのは、本人の中でこれは悪いことだという意識がある時にそうなる。』

それは一理あると思った。
サイコパスは良心というものが無いから嘘も自分の中では本当になるし、人の痛みも共感できないからどんなに人倫に悖ることをしてもそれは彼の中では正当化されている。
サイコパスではなくともそういう傾向の人間はいるし、犯罪者にはアスペルガーやサイコパスが多いと言われる。

スピリチュアル世界には善悪はないというのが今の通説だ。
そういう意味では一点の曇りもなく信じていれば仮に殺人だろうと本人の中では正当なことで、そこに神罰や天罰など来るはずはないという考え方だ。
政治家でも有名人でも法の目をくぐりしゃあしゃあと生きている人間がいるが、少なくとも彼らの中では人が悪と思おうが自分は何ら悪いことだとは思っていないから、まさしく「悪人ほどよく眠る」となる。
そういう人間に被害を被ったり犠牲になった人がいくら「今に絶対天罰が下る」と思ってもそうならない場合はこのパターンだったりする。

もともと魂は人間になってやることを決めている。
現実社会で生きていれば善が虐げられ悪が栄えては身も蓋もないと思うが、スピ世界では仮に善悪と考えなくても立場が逆転する場合や悪業はカルマとなって違う時代に刈り取らねばならないかもしれない。
魂レベルで考えればサイコパスも幸せな天寿を全うした極悪人も長い転生の遍歴では帳尻が合うのではないだろうか。

人間の想念の力は強い。
昨日の友人が言っていたが、波動的に願いの現実化が加速しているそうだ。
特に悪い事やネガティブなことは絶対に思わない方がいい。
口に出せば言霊の力が加わりより引き寄せが強くなる。

善も悪も叶うなら、どんなことを願い信じるかは自分の胸に手を当てて決めるしかない。

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二度あることは三度ある

2016–06–16 (Thu) 22:01
今日の北海道地震の後に龍神神社と地震の関係を記事に書いていた。
一時中断しまた書き始めようと思ったら操作ミスで消えてしまったので、その話は書いてはいけないようだ。

函館市が震度6弱だったが、すぐ向かいには青森があって六ヶ所村の核燃料再処理工場がある。
その貯蔵施設が壊滅したら、原発より被害は大きいらしい。
今は停止しているが、福井県の高速増殖炉もんじゅも同様のようだ。

もんじゅはまた再開を目指すことになったらしいが、そこでは過去数名が不慮の死を遂げている。
自殺か事故かわからないものもあるが、一つの施設や場所やプロジェクトで複数の死者が出たらそこにはネガティブな波動が充満していると考えていい。
無念の死の想念や取り巻く人間達のネガティブエネルギーが増幅し負の連鎖を起こす。

東京オリンピックも舛添知事が辞めたがエンブレムや建設費用、競技場の白紙化、JOCの贈賄など何故これほどまで不祥事が付きまとうのかと思えるほどだ。
はっきり言って東京オリンピックは「縁起が悪い」。

東京オリンピックが決まった時も「福島原発はアンダーコントロール」と安倍総理は大見えを切ったが、あの段階で果たしてオリンピックはできるのかと疑問を感じたものだ。

つまりそもそも無理なことを強引にやろうとしてもそれは天の摂理に反していることで、群がる強欲な想念が悪のエネルギーを増幅し負が負を呼んでいるような状態に見える。

簡単なスピリチュアル的法則だが、物事が自然で順調に進むなら天の理に適っている時で、これは個人的なこともビジネスや組織についても同じだ。
しかし初めから無理があってごり押ししても必ず、邪魔が入ったり躓いたり問題が起こるし、そういう時はすべきではないということなのだ。
強引にやると犠牲者が出て、そのネガティブエネルギーが集まり肥大化し負のスパイラルになる。

やってはいけない事、天意に背く事は必ず警告が入る。
国単位のプロジェクトなどは簡単に変更は出来ないだろうが、一部の為政者や利権者のために関係ない人々に被害が及び国の存亡にまで関わるようになってはもう取り返しがつかない。

天はいつも大事になる前には注意喚起や警告を何度かする。
シンクロのようなミスや失敗が複数あったら個人の生活の中でも注意すべきだし、それはもっと大きな組織規模でも同じことだ。

今日の北海道の地震は東通原発と六ケ所村核燃料再処理工場のすぐ近く、先般の熊本地震は川内原発のすぐ近く。
これが何を意味するのかを考えてみた方がいいのではないか。

「二度あることは三度ある。」
昔の人はこの法則の意味をよく知っていた。
これはスピリチュアル的にも至言である。
そして三度目はとどめのことが多い。



人生の選択

2016–06–13 (Mon) 17:52
人生は常に選択の連続である。
日常の些細なことから人生を左右する決断まで、人間は選択を迫られては一つを選んで道を繋いで来た。
人生が長くなればなるほど来し方を振り返ると「あの時あっちを選んでいれば」と思うことが増えてくるだろう。
特に問題にぶち当たった時や困難に直面した時は過去の選択に悔いを感じる人は多い。

パラレルワールドは聞いたことがあると思うが、これは選択の違いにより別の道を辿った世界のことで、アカシックレコードを読むといくつか見える場合があるようだ。
天命というのがあるが、その前の選択の積み重ねでこれも短くなったり多少延びたりするようだし、少なくとも普通の選択をしていけば寿命は全うできるだろう。

岐路にぶつかった時どちらを選んでもうまくいかなければ後悔は付きまとう。
いや、うまくいってもふとあちらを選んでいたらもっと良かったのではないかと思うこともある。
しかし一つだけ言えることは、過去の選択を後悔しても絶対に選ぶ前には戻れないということだ。

私自身何度も過去の選択を後悔したし、無限の可能性があった18の時に戻って人生をやり直したいと幾度思ったことか。

しかし、最近ぼんやりと思うのはどんな選択をしても多少の違いはあれ、それが生まれて来る前に魂が決めてきた今世の目的から大きく逸脱することはないのではないかということだ。
結局紆余曲折はあっても私は小さい頃から漠然と思い描いていた人生になったし、そこに至るまでは修行としか思えないこともあったが、その結果得たものは多分私の魂が目標としていたものだったのだと考えている。

失ったものも大きかったがそれによって得たものや学んだものは必ずあった。
局面局面で守護霊やガイドが忠告や警告をしてくれたのを今は分かるが、それも聞かず突き進んで完全に人生を間違ったと思ったこともある。
だが、守護霊もガイドも本人の選択を覆すことはできないし、その道その道で守ってくれたり最善の道を示してくれる。

どうも私は過激な道が好きだったらしく一時はガイドもお手上げだったようだが、結局目的の場所に荒波を越えて行くか凪の時に行くかの違いで気が付けばどちらも目的地には着いているのかもしれない。
ここで言う目的地とは魂が人間として生まれる時に決めた目標のことだ。

それは職業的なものでも生き方でもそれぞれだ。
私はようやくそれが分かったような気がしているが、ここまで来るにはまさしく試行錯誤の連続だった。

人生の選択とは所詮方法論の違いであり最終的には一つの方向に収斂していくような気がする。
過去を悔いたり後ろばかり見ていても結局目指しているものが同じだとしたら、今の周りの風景は良くも悪くも必要なものなのだと考えた方がいい。

分かりやすいのは自分にとって何が大切かということで、それが今生の目的になっている場合が多い。
欲しいものや願いではなく、絶対に失いたくないものという消去法で考えてみると見えてくるのではないか。

ただもっと言うなら目標を探し求めるより結果的にこれがそうだったのだと気づく方がいいのかもしれないし、それすら気が付かず死ぬ時にいい人生だったと思えるのが一番魂の目的にかなっているのかもしれない。

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異質の参拝

2016–06–11 (Sat) 18:06
昨日とある神社へ行って来た。
名前は前から知っていて一度行ってみたいと思っていた神社だが、なかなか都合が付かず行こうと思っても天気が悪かったりしてやっと昨日行くことが出来た。
しかし、これ自体が多分あまり行く必要がなかったから延ばし延ばしになったのかもしれない。

先日「イカスピ」という記事で神社で怪しげな挙措をするスピ系の人達のことを書いたが、どうも引き寄せの法則が発動したらしくその場面に遭遇してしまった。
そもそも関東屈指と言われる大杉の御神木を見に行ったのだが、その神社は知る人ぞ知る日月神示が降りた場所でその筋のスピ系マニアの聖地となっている神社らしい。
私は全く知らなかったのだが、奇しくも6月10日はそれが降りた日で、筋金入りの信奉者が次々とお詣りする日らしかった。

本殿の後ろにある天之日津久神社の末杜を拝もうとしたら、喪服と言うか黒服の3人組がやって来てお社の掃除を始め水を撒き女性が突然横笛を吹きだした。
かなり長い演奏で境内中に響き渡っていた。
私は後半しか見なかったが長い間その場所を占領していたので、他にも参拝客がいても近寄れなかったろう。

直感から言うと私はその異形の参拝の仕方に違和感を覚え、すぐ後に続いて参拝する気にはなれなかった。
境内にベンチがあってそこに座っている人と話すと、毎年来る人達のようで他にも踊ったり色々なパフォーマンスをする人達がいるそうだ。
その他にも朗々と祝詞を唱える個人や仲間連れもいたし、かなりここはマニアックな神社なのだと思った。

どうも最近神社に自己満足のために来ている人達が多いような気がする。
自分も含め何のために神社に参拝するのか改めて考えさせられた。
願いや目的のためが多いが、現世利益を求めるだけの参拝は神の意に沿っているのか改めて自分も反省すべきところがあると思った。

本人達は必死で信仰したり神様と繋がりたいのだろうからそれはそれで是非はつけられないが、私は普通にありがとうございますと手を合わせていこうと思っている。

本来は神様が降りてくるほどだからとても神気に満ちた神聖な場所に違いない。
しかし、思いは同じでも解釈や信仰の方向性によって大きく形が変わってしまうのは、人間故に仕方のないことなのだろうか。

下の写真は思いがけず三峯神社の末杜があったので嬉しくなって撮ってみた。

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Author:masquerade
職業画家でベネチアンマスクを描いています。

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