自己犠牲という錯覚

2018–10–05 (Fri) 16:14
生きていく上で、社会の中で、人間関係で、家族との関りで、人は必ず自分の意志に反した道を迫られることがある。
社会が求めていること、常識としてしなければならないことなど、不本意でもやってしまうことは誰でもよくあるに違いない。
頼まれ事を断れない、自分もいっぱいいっぱいなのに人のために犠牲になってしまう、断ったらどんなに楽だろうと思うが悪い人になりたくないので引き受けるなどだ。

人生の中でこの局面は色々な形で誰もが経験すると思う。
多分その葛藤はもはや相手に対してではなく自分の内面の問題なのだ。
やりたくないが拒否したら良心が痛むし後で後悔するかもしれない。
助けを求められても突っぱね、相手が可哀想なことになったら自責にかられるだろうと心のどこかで思う。

この身近なケースでは、家族や親の介護がある。
夫婦や親子という家族で介護が必要になれば当然やりざるを得ない。
仲の良い夫婦や親子なら相手のために面倒を見たいと思うし、それは純粋に愛情が動機になる。
しかし中には不仲な夫婦もいれば、親の介護で生活を犠牲にしたくないと思う子供もいるだろう。
親が我が子を介護するのは一番愛情度が高いと思うが、他は義務感が先に立つ場合も多いのではないか。

自分を殺しても人に尽くすこと、毒親と思っていても介護することなど、一見自己犠牲の美徳に見えるが、実は自分のためにしている場合もあるような気がする。
自分のためとはつまり、人の道に背く人間になりたくない、いい人間でいたい、世間体がある等々、ある意味良心を納得させるために選んだ方法でそこにはもう相手など存在しないのかもしれない。

これは私自身が経験したことなので言えるのだが、親の介護というのは己との戦いだと痛感させられた。
よく自分が後悔しないために親の面倒を見て見送ったという人がいるが、そこには子供としての義務をきちんと果たすという自己満足が含まれている。
夫婦や親子で義務というのは切ない言葉だが、法律でも明文化されているように悲しいかな家族でも愛情だけでは立ちいかない現実がある。

不本意な事をする時でも必ず自分の中でジャッジが存在する。
義務だから、人非人になりたくないからと表層意識は思うかもしれないが、実はそれを選んで自分が苦しみたくないからだという潜在意識の訴えを素直に受け止めた方がいいだろう。
どちらが自分にとってより心が痛まないかの苦しい選択を迫られる時はあるものだ。



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コメント

おはようございます

介護経験の無い者の意見ですが、
私は介護ほどお金で解決ができる問題はないと思っています。

自分の時間をどれだけ介護に充てることができるのか。
お愛想程度に軽く相手にするくらいで済むのなら、
ほとんど負担にはならないでしょう。
でも、四六時中介護に追われているようでは、
それは自分の人生とは言えませんもんね。
また、障害児を持つ夫婦の離婚率が高いとも聞きます。

きれいごとではなく、どこかできちっと線引きしなければ親子双方共倒れになりかねませんね。

Re: タイトルなし

コメント有難うございます。

お金で割り切るのが一番楽ですね。
でもお金があっても親が子供に面倒を見てもらいたがる場合が多いようです。
まだら認知が始まると、特に理性がなくなって子供に執着します。
そんな親を振り切るのは罪悪感も感じるのではないでしょうか。

自分が苦労させられたなら、なおさら同じことはしたくないと思いますよね。
でも人間は難しくて情と執着と愛憎は同時に存在するから厄介です。

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